さて、武器やら兵法、法律の事ではなくて、概念としての「国を守る」について私見を述べさせていただく。「私見」なので予めご了承願いたい。
プーチン'sロシアにウクライナが侵略戦争を仕掛けられて、今日で18日目。
ウクライナの大統領が凄いのか?西側諸国の物資支援が効いているのか?
それもあるだろうが、私はもっと本能的で強力な気持ちがウクライナを持ちこたえさせていると感じる。
人間は古来より生活形態は違えども(狩猟民族・農耕民族)社会性をもって生きてきた。国家と言う概念が発生する前は、外敵から自分の生活環境を守るために戦った。
集団が大きくなると、構成員の中で役割が出来ていく。武力に優れた者、知恵に優れた者、身軽ですばしっこい者、交渉に長けた者。生まれたばかりの者=専ら守られる者。
人以外でも、犬や猫、ライオンであっても「子どもの顔つき」と言うのがあって、周囲が「守るべきもの」と思わせるように出来ているのだと聞く。
外敵が1に対して、こちらも1の場合「守るべき者」がいないので、戦うことも、逃げることも勝手に出来よう。
敵が複数で、こちらには「守るべき者」が居るとなれば、集団的な攻防になる。詰まりこれが「国を守る」起源だともう。平たく言えば「愛情」だ。
各々が持つ「愛すべきもの」のためにどう振舞うか。討払うのか、和睦を結ぶのか。
話を戻すと、ウクライナ兵や市民の多くは「守るべき者」がはっきりしているので、所謂「士気が高い」状態だから、ロシア軍の進軍を遅らせているのだろう。
人の愛情とは、時に自己犠牲も厭わない。
因みに、過去の戦争も含めて、犠牲者を一番多く出しているのは、他ならないロシアだと聞く。1つの戦争で最大300万人が犠牲になったこともあるようだ。
今は日本でも、国家防衛に関する議論が始まりつつある。第二次世界大戦が終わってから実に77年もの歳月が過ぎている。
21世紀になって初めての戦争。私達も、平和ボケから目覚め始めている。「ウクライナ前とウクライナ後」では「防衛」に関しての考え方が変わっていくのだろう。