ピアの広場

2005年から書いている「 精神障害と共に生きていく」ブログです。

恩師の話

簡単に戦争(戦闘)に巻き込まれてしまう事を身近に感じたので、今のうちに。

恩師の話。

恩師として強烈に残っているは、小学5・6年生の担任をしてくださった半本先生。

所謂「産休先生」だったのだが、社会の事が分かり始める10歳の子供たちにとって、半本先生は沢山の事を教えてくださった。

旧陸軍の兵隊さんだった先生。右手の人差指の第一関節から先がなかった。後方部隊の所謂「下っ端」で馬の飼葉を切断する機械に巻き込まれて・・・

顔が怖くて、男性で年配で、指がない!! やんちゃな生徒も怖がっていた。

返事が小さいと、「短く・元気よく、はいっ!」だと指摘された。
子供たちはこれが身について、各家庭でも多くの生徒がこの返事。保護者からも好評。通常「産休先生」は1年間だが、保護者から学校へ申し入れがあって6年生も半本先生が担任になった。

体育の授業も集合整列が遅いと何度もやり直し。ランニング時の掛け声は軍隊式。他のクラスとは明らかに集団行動の統一感が違う。

合唱することも多かった。緑の戦線・同期の桜・元寇の歌・鵯越なども歌っていたが、文句を言う保護者はいなかった。

土曜日には日の丸を黒板に貼りつけて、国旗掲揚。折り畳み方もキッチリ教えてもらった。

帰りの会では最後に必ず「鉄道唱歌」なぜか1番と3番。先生お手製の歌詞を黒板に貼って歌う。歌い終わりで間髪入れずに「起立」と日直が言えないと、やり直し・・・

あ、当時まだ「起立・気を付け・礼」となっていてた授業開始前のあいさつ。「起立」には「立ち上がって気を付けをすることまでが含まれる」だから「起立・礼」だと教わったのも先生から。。

道徳の時間は専ら「忠臣蔵」「日露戦争」の話を先生の語りで聴く。まるで講談師の様に話す。話に入る前には「道徳とは人の踏み行うべき正しき道である」と必ず言う。

体罰はあったと言えばあった。先生がこれ以上ないと怒ったときに行われる。

手の指2本で生徒のおでこを押す。大人でもそうだがこれをやられると、体が大きく揺れることになる。痛みはない。ただ、これが出るという事は「人としてやってはいけないことをしたんだ・・」と感じた。

バレーボールも先生から最初に教えてもらった。9人制バレーボールだった。円陣パスをどれだけ続けられるかとかグループで競っていた。20分しかない業間体育でもボールをもって校庭で練習した。

先生以前いらした学校のクラスでもバレーボールが盛んだったこともあり、異例の対抗試合をしたこともあった。勿論、圧勝しましたw

これをきっかけに、中学でバレー部に入った子はその後、エースポジションで全国大会3位までの選手になった。

「過ちては改むるに憚ること勿れ」「切磋琢磨せよ」などの大人っぽい言葉と意味も先生から教えてもらった。

一方当時は納得がいかなかった言葉もあった「人を注意するときは、自分の事は棚に置け」というのだ。今ならば理解できるが、「自分の頭の蠅を追え」という大人が多い中で不思議に感じていたのだ。

注意することは、相手を揶揄したり誹謗中傷することとは違う。相手を尊重したうえでのこと。
例えば「君の後ろが崖になっている」を自分の後ろを確認してから言っては間に合わないかもしれない。ならば「お互いに注意しあおう」が合理的。

年賀状は手渡ししていた。「先生は天国に住んでいる」といって住所を教えてもらえなかった。先生の家に遊びに行きたいと生徒が言ってもかたくなに拒んだ。行き返りの生徒の安全を思っての嘘だ。

私にとって半本先生とそのクラスメイトと過ごせた2年間は今でも宝物。

だからこそ卒業式では涙が止まらなかった。家に帰ってからも泣いていた気がする。

今は戸惑う事ばかり、当時教わった道徳が通用しないことが多い。日本の美徳が損なわれている気がしてならない。